おおたプライド事業「大田区学」

ページ番号:644663442

更新日:2023年5月1日

「大田区学」って?

身近にありながら気づかなかった、大田区の歴史・文化・名所・伝統・食といった幅広い分野に存在する奥深さを、YouTubeやクイズで楽しく学ぶことができます。

大田区学ロゴ

日本工学院専門学校にご協力いただき、「大田区学ロゴ」が完成しました。
選考の結果、デザインカレッジデザイン課2年生の中村汐里さんのデザインが
最優秀賞に選ばれました。
「大田区をめぐって楽しく詳しく、区について知ろう!」という思いが
込められた素敵なデザインです。
このロゴを活用し、大田区学をより広く発信していきます。

大田区学クイズ【大田区報】

令和5年5月1日号区報の答え「池月橋」

1180(治承(じしょう)4)年、源頼朝が石橋山の戦いに敗れた後、再起して鎌倉へ向かう途中、千束郷の大池(現在の洗足池)近くに宿営したある月明の夜に駿馬(しゅんめ)が現れました。馬体はたくましく、その青毛がさながら池に移る月光の輝くように美しかったため「池月」と命名され、池月橋はその馬名が由来となっています。
橋は竣工を記念し、開催されるようになった「春宵の響(しゅんしょうのひびき)」の舞台としても使用されています。

令和5年4月1日号区報の答え「チャイム」

かつては用務員がベルを鳴らして校内を回っていましたが、広い校内では教室によって時間にずれが生まれること、ベル音は危険を知らせる合図としても使用されていたこともあり、当時国語の教員だった井上尚美(いのうえしょうび)先生が技術者と協力し、ラジオで耳にした「ウェストミンスター寺院」の音色を元にチャイム音を作成しました。
その後「安らぐ音」と評判になり、各地の学校に広まったと言われています。

令和5年3月1日号区報の答え「松竹キネマ蒲田撮影所」

演劇界で興行していた松竹は、映画の将来性を確信して、1920(大正9)年2月に松竹キネマ合名社を設立し、映画界への新規参入を果たします。4月に松竹キネマ俳優学校を開校、6月には蒲田駅東側の大田区民ホールアプリコの辺りに撮影所を開設しました。東京都心に近く交通の便も良い上、多様なロケ地を周辺に擁していたため、この地が撮影所用地に選定されたのです。
撮影所はアメリカのハリウッド映画界から最新の技術と設備を取り入れることで、東洋のハリウッドを目指しました。1936(昭和11)年に神奈川県の大船へ移転するまでの17年間に蒲田撮影所からは1,200本余りの作品が世に送り出されました。

令和5年2月1日号区報の答え「バイト(旋盤などで用いられる切削刃物)」

大田区産業プラザPiOはエントランスから見ると先の尖った刃物のような形状をしています。大田区の持ち味である「ものづくり」「工業」を表すためデザインに取り入れ、平成12年5月には公共建築賞優秀賞を受賞しました。地下1階・地上6階建、延床面積 22,758.78m²(注)には、地域産業の活性化を目的として、ホール・会議室の貸施設や、中小企業を支援する各種支援機関・団体の事務所や窓口があります。

(注):隣接の住宅棟面積を除く

令和5年1月11・21日号区報の答え「ウメ」

梅は大田区にとって歴史的由緒も深く、昭和51(1976)年に区の花に制定されました。特に蒲田は「梅の木村」と称されるほど梅の名所として知られ、花の盛りの時期には江戸からの見物客も多くあったといわれています。その一角に整備された「蒲田梅屋敷」は将軍や天皇も訪れた場所として20世紀の初頭まで賑わいを保ち続け、近代的な都市化の中で「聖蹟蒲田梅屋敷公園」に変じて今に至っています。また池上本門寺の西に位置し、丘陵斜面等を利用した閑静な庭園「池上梅園」には350本以上の梅が植えられていて、春の訪れとともに毎年多くの人々の五感を楽しませています。

池上梅園

令和4年12月1日号区報の答え「勝海舟」

慶応4(1868)年4月8日、江戸幕府の第15代将軍だった徳川慶喜から京都新政府軍との江戸開城に関する交渉を命じられ、翌日と翌々日に新政府軍の本陣とされた池上本門寺に向かいました。道中、洗足池畔で難を避け、交渉は無事成功。4月11日に「江戸無血開城」が果たされます。それから二十数年後に海舟は洗足池を再訪し、別荘「洗足軒」を構えました。

令和4年11月1日号区報の答え「大森貝塚」

モース博士は、明治10(1877)年に来日し、横浜から東京へ向かう汽車の窓から貝層を発見しました。その後の発掘調査や論文発表から大森貝塚は日本考古学の発祥の地とされており、記念石碑は大田区と品川区の2箇所で見ることができます。

令和4年10月1日号区報の答え「お会式(えしき)」

毎年10月12日の午後6時から行われる「万灯練供養(まんどうねりくよう)」では、桜の花で飾られた行灯(あんどん)の棹(さお)を持った人々と、纏(まとい)と呼ばれる江戸時代の消防士を伴った巨大な山車(だし)が笛太鼓に合わせて練り歩きます。

令和4年9月1日号区報の答え「モヤイ像」

友好の絆を記念し新島村から商店街(蒲田駅東口商店街商業協同組合)へ2体寄贈されました。現在その内の1体は青森県深浦町にあります。古くから新島では「共同して仕事に当る」ことを「モヤイ」と呼んでいます。

令和4年8月1日号区報の答え「宝萊山(ほうらいさん)古墳」

多摩川流域最古級の前方後円墳で、荏原(台)古墳群の初期の首長墓と考えられます。今年の4月に東京都指定史跡70周年を迎えました。多摩川台公園には宝萊山古墳以外に9つの古墳があり、展示室もあります。

令和4年7月1日号区報の答え「水止舞(みずどめのまい)」

古くから水害に悩まされたことから伝わる、雨を止める祈りの行事。地面に転がされて水を浴びながらもほら貝を吹く姿や物語調に進む獅子舞が有名で、東京都無形民俗文化財でもあります。

令和4年6月1日号区報の答え「あげパン」

大田区立嶺町小学校の調理員さんが昭和27(1952)年の冬頃に考え出したと言われおり、大田区発祥とされています。

令和4年5月1日号区報の答え「大森と蒲田の1文字ずつをとって名付けた」

昭和22(1947)年3月、大森区と蒲田区が合併して大田区が誕生しました。「大田」の名称は、大森と蒲田の1文字ずつをとって名付けられました。

令和4年4月1日号区報の答え「桜坂」

東急多摩川線沼部駅から東光院前を通り北東へ向かうと、
田園調布本町から石垣にはさまれた旧中原街道の切通しの坂道があり、
この切通しに桜が植えられ「桜坂」と命名されました。
福山雅治さんのヒットソングにより一躍有名になり、
桜の季節には多くの人が訪れます。

大田区学ミニミニ講座

大田区公式Youtubeで大田区の歴史・文化・名所・伝統・食などの魅力をわかりやすく紹介します。

大田区公式PRキャラクター「はねぴょん」と一緒に大田区と勝海舟の繋がりなどについて紹介します。

大田区蒲田駅周辺がどのように賑わいを生み出していったかを紹介します。

大田区公式PRキャラクター「はねぴょん」と一緒に大田区の古墳について紹介します。

あげパンが大田区発祥の理由を紹介します。

東京23区の区役所で唯一の「国際交流員」などについて紹介します。

大田区公式PRキャラクター「はねぴょん」とともに「大田清掃工場」について紹介します。

大森麦わら細工から麦わら帽子に発展し、麦わら帽子作りが雑色から全国に広がっていった歴史を紹介します。

馬込のまちにその名が残る「三本松」の由来を、川瀬巴水の有名な版画とともに紹介します。

大田区がどうして“太田”ではなく“大田”なのか?を紹介します。

お問い合わせ

産業振興課

電話:03-5744-1322
FAX :03-6424-8233