勝海舟と大田区

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勝海舟のプロフィール

勝海舟(通称:麟太郎、安房守、安芳)
出身地:江戸(東京都) 
生誕:文政6年1月30日(1823年3月12日)
死没:明治32(1899)年1月19日
享年:77歳(病死)
時代:江戸時代後期-明治時代後期

スクリュー式蒸気軍艦「咸臨丸」で渡米し、海軍の育成に努めるなど、非常に革新的な考えを持った幕臣と言われています。1868年に新政府軍が江戸に進軍した際には、薩摩藩邸における西郷隆盛との会見や、池上本門寺での交渉を経て、「江戸無血開城」を実現させたことでも有名です。

勝海舟とのゆかり

 勝海舟は、江戸城の明け渡しについて話し合うため、中原街道を経由して、新政府軍の本陣がおかれた池上本門寺へ向かう途中、洗足池付近で休息をとったといわれています。そのときに、洗足池周辺の風景を気に入り、明治24年(1891)年、「洗足軒」といわれる別荘を現在の大森第六中学校の地に構えました。
海舟は明治32(1899)年1月19日に亡くなり、遺志により洗足軒の近くに葬られました。明治38(1905)年、海舟の妻民子が亡くなり、一度は青山墓地に葬られましたが、昭和20年代にこの地へ改葬されました。
現在、洗足池のほとりには、二つの五輪塔が並んだ「勝海舟夫妻墓所」があり、地域の方にも親しまれています。

旧清明文庫

 海舟没後、財団法人清明会が別荘「洗足軒」を近隣に移転させ、その隣地に「清明文庫」を設立しました。ここでは、海舟関係の図書の収集・閲覧や講演を行いました。
財団法人清明会によって昭和8年に開館された本建物は、大田区が平成24年(2012年)3月に土地を取得し、併せて建造物の寄贈を受けました。平成12年(2000年)に国登録有形文化財に登録されています。

「洗足軒」の移転地後

明治24(1891)年に造られた勝海舟の別荘「洗足軒」は、現在の大森第六中学校敷地内にありました。母屋は建坪33坪の小さな農家風建築で、海舟亡き後は、その子・梶梅太郎が父の墓守も兼ねてそこに住んでいました。しかし、大正10(1921)年10月31日に梅太郎が退去し、川口町(現在の埼玉県川口市)に移住した後は、荒廃が進みました。
大正13年8月31日、洗足軒は勝家から財団法人清明会に譲られ、「海舟遺蹟保存」を掲げる清明会によって、同年12月から昭和2(1927)年7月までの間に海舟墓所南隣の土地に移築されました。それが、現在の勝海舟記念館前庭部分です。昭和2年6月30日、清明会の幹事の1人であった渋沢栄一が視察に訪れ、ここで記念写真が撮影されています。
当初、洗足軒は清明会の閲覧室兼講堂として使用される予定だったようですが、その機能は昭和3年4月上旬に洗足軒の東隣に竣工した清明文庫(現在の勝海舟記念館)によって担われました。
昭和10年2月の清明会終結後も、洗足軒は清明文庫と共に残りましたが、戦後焼失したため、現存していません。 

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勝海舟記念館
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