勝海舟夫妻の墓
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更新日:2025年11月18日
向かって右が海舟、左が妻・たみの墓。
水盤。明治32年(6月頃か)完成。
勝海舟(安芳。1823-99)と妻・勝たみ(民子、吉子。1821-1905)の墓。区指定文化財。
<前史>
慶応4年4月9日(1868年5月1日)・10日、勝海舟は京都新政府との江戸開城談判のため、中原街道を経由し新政府軍本営の置かれた池上本門寺に赴きました。この道中、洗足池畔で刺客の襲撃に遭いましたが、地元民の協力により難を逃れ、束の間の休息を得ています。これにより本門寺での談判が無事妥結し、4月11日、江戸開城が成りました。
この時の感慨から、海舟は明治23(1890)年に洗足池を再訪し、津田仙(旧幕臣。津田梅子の父)の口利きで私有地を取得。同25年にかけて別荘「洗足軒」を造営しました。以来、毎年4月に旧幕臣仲間を招いて詩会を催すなど、度々この地に遊び、やがて死後には同地に埋葬されることを希望するに至ったとされます(一説に、洗足池から望む富士山を好んだとも伝わっています)。
<海舟墓所の完成>
明治32年1月19日に死去した海舟(享年77。戒名:大観院殿海舟日安大居士)の棺は、25日の葬儀後に青山葬祭場から洗足池畔へと送られ、生前の遺志に沿って現在地に埋葬されました。
この時点で墓石は未だ存在しておらず、後日、海舟の遺族と知己によって仕様が協議されています。この結果、かつて海舟の描いた墓石図をかたどり、簡素な五輪塔形状の墓石が造られることとなりました。墓石は青山の石工・鈴木猛麟の手により、明治32年11月に完成しています。なお、五輪塔の水輪部分に彫り込まれた「海舟」の二字について、徳川慶喜の揮毫とする説がありましたが、調査により、かつて海舟の後見を受けた徳川家達公爵の字であることが明らかとなっています。
以後、しばらく海舟の墓石のみが建っている状態でしたが、戦後になり、妻・たみ(明治38年5月23日没。享年85。戒名:大慈院殿妙海日深大姉)の墓が青山墓地から同地へと移され、今日に至っています。
<墓域に現存する水盤>
墓所の傍らには、勝伯爵家と海舟知己が明治32年5月から寄附金を募り、同年に設置した水盤(手水石)が現存しており、裏側に刻み込まれた寄附者56名の名前が確認できます。中には赤松則良や榎本武揚、木村芥舟(喜毅)や津田仙らの名前も含まれています。
所在地
大田区南千束二丁目14番5号 洗足池公園内
交通アクセス
東急池上線洗足池駅下車徒歩約10分
お問い合わせ先
勝海舟記念館
電話:03-6425-7608
郷土博物館
電話:03-3777-1070
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