西郷南洲留魂詩碑
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更新日:2025年11月18日
表に西郷隆盛作の漢詩、裏に勝海舟の述懐が彫られている。
明治12(1879)年、勝海舟が故・西郷隆盛(吉之助、南洲。1828-77)のため、木下川浄光寺(木下川薬師。東京都葛飾区東四つ木1-5-9)境内に建立した石碑です。
<前史>
明治時代初期、政府に対して生じた士族反乱の中で最大規模のものが、同10年1月30日に始まった「西南戦争」です。この際、鹿児島県士族らが反乱の盟主と頼ったのが、明治6年の征韓論政変に敗れ下野していた西郷隆盛でした。政府は有栖川宮熾仁親王を征討総督、山縣有朋・川村純義を参謀とする追討軍を派兵し、激戦が展開されています。しかし、次第に反乱方の敗色が濃厚となり、明治10年9月24日、鹿児島城山における西郷の自刃によって戦争は終結しました。
この間、海舟は旧幕臣の暴発を抑えるべく奔走しましたが、幕末以来西郷と懇意であったことから、政府の警戒を受けました。それでも海舟は、朝敵のまま没した西郷を大いに悼み、西南戦争終結から間もない時期に亡友の名誉を守る活動を開始しています。この事例が、西南戦争終結の翌年である明治11年における『亡友帖』(西郷ら亡友を追悼するための遺墨集)の刊行、そして、明治12年における「西郷南洲留魂詩碑」の建立でした。
<建碑由来>
当時南葛飾郡木下川には、徳川宗家が海舟の仲介により名主・村越家から買い上げた農地と附属する「木下川梅屋敷」がありました。農地の管理は旧幕臣・永井尚志が担っていましたが、梅屋敷には勝家から管理人が入っていました。明治12年3月頃、海舟はこの辺に故・西郷の「記念碑」、すなわち南洲留魂詩碑を私費で建立する計画を開始しています。早速、馴染みの料亭「八百松」を通じて仙台石を購入、石碑に刻む西郷の遺墨選定と写本の作成も同時に進めました。4月には谷中の石匠・廣群鶴(第六世。?-1882)に、西郷遺墨の写本を仙台石の表面に彫刻するよう依頼しています。廣は、海舟が明治9年9月、久能山東照宮社前に「梅割の碑」(もと駿府城の庭にあった伝・徳川家康手植えの梅の木の由来を後世に伝えるための石碑)を建立する際に手掛けた人物です。
明治12年5月18日、表面が完成。彫られたのは、西郷が文久2(1862)年から元治元(1864)年にかけて、配流先である沖永良部島の獄中で「魂魄を留め皇城を護らん」との志から作った漢詩でした。6月23日には、海舟の述懐が刻まれた裏面が完成しています。西郷に対する追憶と欽慕の情を綴り、「ああ君よく我を知れり。而して君を知る、亦我に若くは莫し。地下もし知る有らば、それ将に掀髯一笑せんか」との詞で締めくくっています。
こうして完成した南洲留魂詩碑は、当初木下川梅屋敷の中に建立される予定でしたが、最終的に付近の天台宗古刹・浄光寺境内が選ばれています。谷中から神田川経由で運ばれ、明治12年7月30日に建立が果たされました。この後も海舟は、故・西郷の名誉回復に関する活動や、遺児・西郷寅太郎、同菊次郎らの留学及び立身に関する世話等に尽力を続けていきます。
<その後>
明治22(1889)年2月11日、大日本帝国憲法発布に伴い大赦が発せられた際、西郷の罪が免じられると共に正三位が追贈され、海舟の願ってきた西郷の名誉回復が果たされました。海舟は、これにより南洲留魂詩碑も役割を終えたと考えていたようです。海舟没後もそのまま浄光寺にあり続けましたが、大正2(1913)年の荒川放水路開削時、旧所在地が工事対象となったため、故・海舟の旧知である富田鐵之助(1835-1916。初代日本銀行副総裁・第2代総裁、東京府知事など歴任)らの運動によって、現在地に移設されました。
所在地
大田区南千束二丁目14番5号 洗足池公園内
交通アクセス
東急池上線洗足池駅下車徒歩約10分
お問い合わせ先
勝海舟記念館
電話:03-6425-7608
郷土博物館
電話:03-3777-1070
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