第10回 川瀬巴水 学芸員コラム

ページ番号:318501104

更新日:2022年3月31日

旅先を描く(1)

 版画絵師・川瀬巴水の生涯と画業についてのコラムをお届けします。第10回は旅好きであった巴水が訪れた旅先の風景を主題としたシリーズ作品(連作)をご紹介します。

巴水にとっての「旅」

 川瀬巴水の作品の多くは、巴水自身が日本全国を歩き目にとめた風景を主題としています。巴水は「今の私に何が好きだと聞かれましたら即座に旅行!と答へます。実際、旅行は私の嗜好中第一位にあります」(『川瀬巴水創作板画解説』渡邊版画店、大正10年。以下同書から引用する場合は、『創作板画解説』と略記する)と述べているように、生涯旅を続けその風景を詩情豊かに表現しました。巴水の盟友でもある伊東深水も「川瀬巴水君は実に清親以後の風景版画家として唯一の存在です。(中略)「旅情詩人」私は敢て君を斯ふ呼びたいのです。実際君程若い時から旅を好んだ人はありません。君の芸術は旅に於て生れ旅に於て完成されたと云つても差支へないでせう。君の眼に映じた物象はすべて旅人の胸に宿る美の反映であり、それは直に君の画囊を満たす珠玉と云へませう」(「郷土会第十五回 川瀬巴水作品展覧会 パンフレット」、1930年)と巴水のことを評しています。
 巴水にとって初めての遠方への写生旅行は明治42(1909)年の奥羽方面と塩原への旅だといわれ、この時の写生は肉筆作品や後年の版画に影響を与えたとされます。そして版画の世界に関心を持ち、制作を始めた大正7(1918)年には幼い頃より馴染み深い塩原の地に足を運び、写生に励んでこの地を主題とした作品が生まれました。以後、旅先の風景を写生し、東京へ持ち帰って下絵を描き、また旅に出る。この繰り返しを巴水は生涯続けました。巴水にとって旅はいわば作品制作の源泉であったのです。

旅を主題とした初の連作『旅みやげ第一集』

 「旅みやげ第一集」は、旅を主題とした連作の第一作目です。大正8年夏から同9年秋までの約1年間で青森・宮城・千葉・石川・栃木の各所を断続的に巡り、16図の版画にしました。巴水は『旅みやげ第一集』について『創作板画解説』に次のように記し、次の連作への意欲もみせています。
 「板画を始めましてから、まだ僅かの間ですが、其の間数回の旅行を致しました。ただ嗜好と云ふのみでなく、何れも写生が目的でしたが、其時の心持で面白かるべき所が案外つまらなく感じられたり、或は佳い場所と思ひながらも構図が纏まらなかつたりして、存外製作が出来なかつた場合もありました、併し、其の都度有形無形に得る所が決して僅少ではなかつたのであります。」
 この連作では、巴水が生涯好んで描いた水辺や月夜、雨の情景などがみられます。版画制作を始めた当初から、巴水の求める画題は定まっていたといえます。また、栃木県の塩原を描いた「しほ原 あら湯の秋」(大正9年秋〔作品画像は第1回「川瀬巴水 学芸員コラム」参照〕)は、観光地として賑わいをみせる温泉場ではなく日常生活が営まれている静かな塩原が捉えられています。幼い頃よりこの地を知る巴水だからこそ描くことができた風景だったのです。
 当館には、『旅みやげ第一集』に収録されている「若狭……久出の浜」の順序摺の貼込帖が収蔵されています。この貼込帖は墨摺を1 回目として、34 回の摺りの工程を収めたものです。摺りの順を追ってみると、薄い色の上に濃い色を重ねて色に深みを出す工夫が凝らされていることがわかります。これは近世の浮世絵よりも手間や絵の具などの材料費もかかることを示しています。渡邊庄三郎は「斯様に遍数の多い事や其他苦心の点を挙げて見た所で大して自慢にも成りませんが要するに、清新な気分を現はす事が出来れば、私共の本懐とする所であります」(「新板画の内容」『創作板画解説』)と述べており、手間や資金をかけてより美的な作品を生みだそうとした新版画への気概を感じ取ることができます。

旅先からの手紙

 巴水にとって、作品制作の転換点となった旅がいくつかあります。関東大震災後の大正12年10月22日に出発し、翌年2月3日に帰宅するまでの長期写生旅行は間違いなくそのひとつに数えられるでしょう。震災により、家財や作品、写生帖を失った巴水に、版元の渡邊庄三郎は焼け残った作品を持たせ写生旅行へと送り出します。巴水は各地で写生を重ねる一方で、旅先で展覧会を開催し旅を続けていきました。ここではこの写生旅行中に庄三郎に宛てて出された巴水の書簡2通を取り上げ、旅の様子や版元との関係、さらには当時の巴水の心境などを紹介します。
 まず1通目は、金沢の銀壷堂の後援により大正12年11月20日から25日まで展覧即売会を開催し、28日にその首尾を兼六園内の三芳庵から報告したものです。「展らん会はめずらしいので評判はよかった」としつつも、本文中に「予定通り売れません」と記すなど、版画の売り上げは16枚と芳しくありませんでした。版画の購入者は「当地の在留の外国人」と記していますから、外国人の間でも「川瀬巴水」の名はすでに知られており、当時から愛好家がいたことがわかります。また、この書簡では「やむを得ない事情の為 少しく御こずかいをつかいすぎたので御送金をする事が出来ません」として、「本来 廿四円御送金すべきですが これは 板画を書いて解決をつけます」とも伝えています。庄三郎への売上金の送付という問題に版元と絵師の関係性がよく表れているといえるのではないでしょうか。

 2通目は、旅も終盤にさしかかった12月30日、広島に滞在する巴水から庄三郎へ送られた書簡です。本文には、「四五日の写生旅行にまた少しくたびれ よふよふ予定の行働を終り当地へ着仕候 四日ごろ当地出発 岡山神戸大坂京都をへて一月末帰京仕候(中略)写生いろいろ出来候へ共こんだはよくよく研究かつ御相談も申上製作致し度候間帰京の上の事と仕候」と認められています。旅を開始して約2ヶ月が経ち疲れが出ていることや、写生が順調にできており帰京後の作品制作にあたっては「研究」や「相談」することを綴るのです。ここには、震災で作品や写生帖を失った落胆の色はすでに見えません。むしろ旅行中の写生に手応えを感じ、「研究」と「相談」を通じて新たな作品制作を成し遂げる。そんな意気込みがこの書簡からは伝わってくるようです。 

川瀬巴水 渡邊庄三郎宛書簡 大正12年12月30日

 この旅より戻り、巴水は『日本風景選集』を完結させ『旅みやげ 第三集』の制作に着手しました。   

関東大震災により制作が一時中断した『日本風景選集』

 大正11年6月から制作が始まる『日本風景選集』は九州・中国・近畿地方への写生旅行を主題としており、その作品には自然の中で営まれる人々の暮らしを写したものが多く含まれています。当初は1回の頒布会につき3枚、全12回が予定され、計36枚の販売計画でした。しかし、雨中の岡山城を描いた第11回分の「岡山 内山下」の版木が完成した頃、関東大震災が起こり制作は一時ストップします。幸い版木が残ったため、摺りを再開し復興の第1作目としました。残りの頒布分は、震災後に巡った旅先の風景を下地として5図が順次出版され完結へと至ります。
 シリーズ収録作品「木曽の寝覚」と「木曽の須原」の画題となった木曽路は、大正12年10 月末、震災後の長期写生旅行で最初に向かった場所です。前者の「寝覚」とは木曽八景の一つに数えられる長野県木曽郡上松町の「寝覚の床」のことであり、木曽川が花崗岩地帯の岩を削った四角い箱のような岩が続く景勝地として知られています。「寝覚」の名称は浦島太郎が玉手箱を開けた後に目覚めた場所という伝承に由来するものです。画面右に描かれた高い岩の上に建つ祠は、浦島太郎が弁財天像を残したという浦島堂であり、近くの寝覚山臨川寺にはその弁財天が祀られています。後者の「須原」は現在の長野県木曽郡大桑村にあり、中山道の39 番目の宿場です。元の宿場は現在地より下流の河岸にありましたが、木曽川の氾濫で流失し、享保2(1717)年に現在地に移転しました。雨はバレンで筋を付けることで表現されており、旅人たちも寝静まった静寂のなかで、激しく降り注ぐ雨音だけが聞こえてくるようです。


川瀬巴水「木曽の寝覚」大正14年作


川瀬巴水「木曽の須原」大正14年作

 大正12年12月、巴水は美術工芸研究家で浮世絵の蒐集家でもあった桑原洋次郎を訪ね、出雲にしばらく滞在しています。同月8 日に美保関を写生した記録が残ることから(写生帖第3・4号)、版画になりそうな構図を探して周辺を歩き回ったのかもしれません。美保関を描いた作品には本連作のひとつ「出雲 美保ヶ関の朝」の他、大正13年作の「出雲 美保ヶ関」『旅みやげ第三集』もあります。美保関は、江戸時代に北前船の港として賑わい、宿屋を兼ねた廻船問屋が軒を連ねました。本作に描かれた弁天波止場常夜灯は、灯台の役割を果たす灯篭として天保13(1842)年に建てられますが、その後の風化のために明治3(1870)年と平成23(2011)年に再建されています。
 なお、本連作は通常の新版画のサイズ(約360×240mm)よりも少し小さい間判サイズ(約280×200mm)で制作されました。

関東大震災後初の連作『旅みやげ第三集』

 『旅みやげ第三集』は、大正12年9月1日の関東大震災後、初の連作として出版されました。この連作の途中から撰集の形式はとらず、ある程度制作点数がまとまったところでシリーズとして集約されるようになったとされます。そのため、余白には「旅みやげ第三集」の印が押されていない作品も多くあります。連作に収まるのは、おもに震災後に出掛けた人生最長の写生旅行と、大正14年9月から昭和3(1928)年1月までの千葉や秋田・新潟・大阪・四国・中国・九州の写生旅行に取材しています。

伊東深水との秋田・新潟旅行から
 ここで紹介する「男鹿半嶋 蒿雀窟」や「秋田 八郎潟」は、大正 15年 6 月末から7 月初頭にかけて伊東深水とともに秋田・新潟を旅したなかで写生された作品です。この旅の目的は、以前に秋田県沼館町(現横手市)の佐々木謙蔵なる人物が求めた深水の帝展出品作「昼さがり」に深水自身が補筆するためと、秋田の風土に接するためだったと伝わります。巴水もこの旅に加わり、田沢湖・男鹿半島などの景勝地を巡りました。充実した写生旅行であったとみえ、美しく彩色された写生帖が残りこれらをもとにした作品が多数制作されています。

 秋田・新潟への旅行中である7月2日、巴水は秋田から妻の梅代宛に絵葉書を出しています。本文には「本日秋田へ着 たゞちに当所へまいりました 明日秋田へ戻り 四五日滞在 少し帰京がおくれます 何れ秋田から又御たよりいたします 早々 用事あらば広田さんへ御一報あれ」と綴られています。男鹿半島蒿雀窟(孔雀窟)の絵葉書を使用し、帰京が遅れる旨を伝えたものです。巴水は旅について「旅行は元来好きでよく出かけますが、大業な旅支度など嫌いな方でして、四国へ出かけた時など、あちらで稼がねばならぬ関係上、トランクなどを持つて出たので珍しいと言はれた位です。いつも旅立ちをするには銀座散歩の延長ぐらいの軽い気持で、品川を過ぎると家の事など最早念頭にない位です」(川瀬巴水「半雅荘随筆」『浮世絵芸術』第4巻第3号、1935年)と記していますが、訪れた旅先の風景が写された絵葉書を添え妻への連絡を怠らなかった側面もみせています。


川瀬巴水「男鹿半嶋 蒿雀窟」大正15年作


写生帖第16号 こうじやくの岩屋(7月3日)

 「秋田 八郎潟」に描かれている干拓前の八郎潟は、70 種類以上の魚が生息していたとされ漁業が盛んに行われていました。八郎潟に近接する八龍神社拝殿脇の欅を手前に配し、奥に八郎潟を望む場所から写生を行っています。スケッチの左端には、八郎潟で使用されていた漁船の潟船とこれを操作する人影が描かれていますが、夜景にしたためか作中には登場させていません。


川瀬巴水「秋田 八郎潟」昭和2年作


写生帖第16号 八郎神社(7月9日)

下駄で登った白馬岳
 『旅みやげ 第三集』の一作品「白馬山より見たる朝日ヶ嶽」は大正13年7月22日に行った白馬岳登山でのスケッチに基づき制作されました。この山登りについては写生帖第9号の末尾に記された「白馬登山と浅間温泉」という記事によって詳細を知ることができます。この記事は、巴水が当時勤務していた白牡丹(化粧品と和装小物の店。巴水はここで広告図案・かんざし・櫛・帯留などの図案を描く仕事に従事していました)の主人らと7 月20 日夜に長野方面へ出発、24 日に帰宅するまでの白馬岳登山や浅間温泉宿泊、さらには善光寺参詣の記録です。以下、この記録によりつつ、巴水ら一行の足跡をたどってみましょう。
 登山前日の7 月21 日に白馬大雪渓下にある白馬尻小屋に到着、翌日の朝6 時15 分に白馬岳に向けて出発しました。記事には「頂上十一時半 頂上の手前の小屋にて中食 朝日嶽スケツチの為一人頂上に行かず 一時下山 大雪渓大こんなん 強力に助けられて下る午後五時白馬尻着 雨ふり出す(それ迄快晴)二またに八時着(暗くなり雨しきりにふり 松田御主人 三沢氏 山清君と共にぬれ鼠となつてあるく)二また館に泊る」とあります。この時、巴水は雪山を下駄で登ったとされ、下山後の下駄には指の跡が残るほどであったといいます。
 雨もあがるなか、翌23 日には白馬岳から自動車と鉄道を乗り継ぎ浅間温泉へと向かいます。投宿したのは「富貴の湯旅館」。同所は明治時代末期に創業した温泉旅館で、浅間温泉を代表する老舗です。普段、あちらこちらと歩いて写生を行う巴水ですが、登山は平坦地を歩くのとは全く別種のものであったのか、「足つかれる事甚し」と綴られています。湯につかり、慣れない登山の疲れを癒すことができたのではないでしょうか。温泉に一泊した一行は、翌日長野の善光寺に参詣し、その日の夜に帰宅しました。
 なお、後年制作された「白馬之雪渓」も本作と同じ日(7 月22 日)に写生された別のスケッチに基づき作品化されたものです。


川瀬巴水「白馬山より見たる朝日ヶ嶽」大正13年作


写生帖第9号 朝日岳と八ヶ岳(大正13年7月22日)

作品などの画像の二次利用や無断転載は固く禁じます。作品については大田区立郷土博物館までお問合せください。

お問い合わせ

大田区立郷土博物館

大田区南馬込五丁目11番13号
電話:03-3777-1070
FAX :03-3777-1283
メールによるお問い合わせ