第5回 初代館長、西岡秀雄 学芸員コラム

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更新日:2023年6月27日

考古青年の模索(中編)

 このコラムは、企画展「田園調布の遺跡発見!~初代館長、西岡秀雄の足跡~」の内容を、さらに掘り下げたものです。大田区立郷土博物館の初代館長を務めた考古学者・地理学者、西岡秀雄(1913~2011)が、10代後半~20代、考古学・人類学を志し、地元、田園調布周辺の遺跡の調査研究と成果の発信に奔走しつつ、研究者へと成長していく足跡をたどります。

訪れた転機

「史前学」への開眼
 昭和7(1932)年春、浪人2年目に突入した秀雄をいよいよ心配した父俊雄は、秀雄に神田の駿河台予備校に通うよう命じます。これが大きな転機をもたらしたと、秀雄は後年の講演で回顧しています(1993「古墳と私」『大田区立郷土博物館紀要』第3号所収)。
 定期券を買ってもらった上、母郁子が弁当を持たせてくれるため、秀雄は毎朝家を出ないわけにもいかず、予備校に行くふりをして、東京市立日比谷図書館に通うようになります。約14万冊もの蔵書を誇るこの図書館で、西岡は「全部読んじまえ」という気迫をもって、人類学・考古学の専門書を次々と読破していきます(1931『東京市立日比谷図書館要覧』)。海外の文献は翻訳と原文の双方を読み、読書内容をメモしたノートは20冊に及びました。半年もすると図書館の文献を読み終えてしまい、日本橋の丸善まで足を延ばして、受験参考書を買うためのお金で和洋の新刊書を買いあさります。俊雄が時々部屋をのぞきに来るため、秀雄は家ではこれらの書籍に別のカバーをかけてカムフラージュしていました。 猛烈な読書を通じて学界の動向を把握した西岡は、ついに、今後も人類学・考古学の研究を続けていくためには、やはり大学に進学しなければならないと思い立ちます。
 では西岡が見た学界の状況とは、どのようなものだったのでしょうか。ここで、当時の日本の人類学・考古学の研究をリードしていた、大学をはじめとする研究機関を概観してみます。(注釈1)
 まず大学では、坪井正五郎(第4回コラムを参照)以来の東京帝国大学理学部の人類学教室のほか、東北帝国大学医学部に長谷部言人(はせべことんど)の解剖学教室、京都帝国大学医学部に清野謙次(きよのけんじ)の研究室が知られていました。これらの研究室は、各地で盛んに発掘・収集した人骨の計測や、現代人の身体検査で得た膨大なデータの統計に基づき、人体の自然科学的分析から日本列島の人類の起源を探る、新しい流れを興していました。一方京都帝国大学文学部では、大正5(1916)年、日本初の大学の考古学の講座として創設された濱田耕作(はまだこうさく)の考古学教室が知られ、各地の遺跡を発掘調査して、精細な図面・写真を多数収録した高度な報告書を続々と刊行し、考古学の研究方法の基礎を確立していました。また國學院大學史学科では、東大を退職した鳥居龍蔵(とりいりゅうぞう)が大正13(1924)年に上代文化研究会を創立し、大場磐雄(おおばいわお)らとともに考古学・民族学を志す学生を育成していました。早稲田大学では、西岡の人生を変えた『人類学汎論』の著者で人類学者の西村眞次(第2回コラムを参照)のほか、美術史家の会津八一(あいづやいち)、地質学者の徳永重康(とくながしげやす)らがそれぞれ研究組織を立ち上げつつあり、慶應義塾大学でも、後述する大山史前学研究所の大山柏(おおやまかしわ)や、文部省保存課を退職した柴田常恵(しばたじょうえ)の人類学の講義が始まっていました。しかし今日と比べ人類学・考古学の専門の研究室をもつ大学ははるかに少なく、専門性を生かした就職先も限られました。
 大学以外の機関では、主に古墳時代の膨大な考古資料を収蔵する東京帝室博物館(現、東京国立博物館)が、明治期以来、考古学の一大研究拠点となっており、昭和7年当時は監査官の後藤守一(ごとうしゅいち)らが活躍していました。また文部省にも史蹟名勝天然紀念物保存の担当部署である保存課があり、上田三平(うえださんぺい)らが各地の遺跡の調査に従事していました。
 さらに大学や官庁に属さない研究団体として、森本六爾(もりもとろくじ)を中心とする東京考古学会や、大山柏による大山史前学研究所などが活動していました。

 西岡は先の下沼部汐見台横穴墓群の調査で、発掘した人骨の年齢・性別の分析や「骨格指数」の計測も試みており、自然科学的研究に強い関心を持っていたことがうかがえます。当時この分野で研究の前線に立つには、調査・収集、データ解析、報告・論文の発信を大規模かつ組織的に行える大学組織に属することが圧倒的に有利でした。ただし東大人類学教室は、西岡の志望対象にはなりませんでした。理由は「いい先生がいらっしゃらなかった」(「古墳と私」)からだといいます。昭和初期の東大人類学研究室を率いた松村瞭(まつむらりょう)は、基礎研究に成果を遺し、学生の育成にも尽力したことが知られていますが、松村自身の著作が少なかったことなどから、当時は「何が専門なのか一般の人には判りにくい」といわれるほど知名度が低く(寺田和夫1975『日本の人類学』思索社)、西岡の反応もこうした事情をうけたものと考えられます。
 また、人骨の分析にもまして西岡の心を捉えたものがありました。それは大山柏が提唱した「史前学」です。史前学とは、大山がドイツ留学での経験をもとに構想した考古学・人類学の方法で、土器・石器の体系的な分類だけでなく、貝塚や地形などを手掛かりに動物・植物・地質・気候などの自然環境をも総合的に分析し、先史時代の人類の動きを、地球規模で明らかにしていく学問です。大山は、昭和4(1929)年から渋谷区隠田(現、神宮前)の自邸に「大山史前学研究所」を開設し、研究員たちと遺跡の調査研究を実践するかたわら、慶應義塾大学で一年おきに人類学の講義を担当していました(阿部芳郎2004『失われた史前学』岩波書店)。西岡は、大山の講義が受けられる慶應義塾大学への進学を志すようになります。

初めての講演、遺跡保護の訴え
 同じ頃、西岡が地域の研究者として広く認められる機会が訪れます。それは昭和7(1932)年7月6・7日に東調布町第二小学校(現、田園調布小学校)講堂で開催された、地元の郷土史研究サークル、上調布郷土研究会主催の講演会でした。当時、東調布町では、東京府教育研究会から郷土教育調査研究の委嘱を受け、東調布第一・第二・第三小学校を拠点として、各校の教員や地元の有志が、郷土の歴史や民俗に関わる資料の収集、編さんを進めていました。この講演会もそうした事業の一環だったと考えられます。

 西岡は2日連続の講演会のうち1日目の講師として「石器時代遺物と古墳遺跡」について講演します。ちなみに2日目は、中学時代の西岡が仁徳天皇以前の天皇の長寿の謎を質問しに行った、脇水鉄五郎(第二回コラムを参照)による、武蔵野の地質の成り立ちに関する講演でした。地質学・土壌学の大家で、この年から国立公園設立へ向けての特別委員会の委員も務めていた脇水の影響力もあってか、この講演会の予告は当時考古学・人類学の最新動向を広く一般に発信していた雑誌『ドルメン』に掲載されました。期せずして西岡は、全国デビューを果たしたのです。

 これらの講演は、ただ講師が会場で話すだけではなく、内容を深めるための工夫がこらされていました。西岡の講演では、考古資料や西岡の手による「古墳分布図」が会場に展示され、脇水の講演では、講話のあと会場を出て付近を歩き、台地の地層が観察できる露頭を実地に見学するツアーが盛り込まれていました。
 西岡の講演内容は、講演原稿をもとにしたとみられる『田園調布会誌』に掲載された文章から復元できます(西岡秀雄1932・1933「田園調布及び其の付近の人類学及び考古学上の遺物(上)・(下)」『田園調布会誌』第5巻第6号・第6巻第1号)。それは、これまでの調査や読書で得た知見を集大成したものでした。

 最初に西岡は、田園調布という地域が、数多くの遺跡のある「史前学博物館」のような土地であり、宅地開発で急速に破壊され「臨終にも近い」遺跡を「学究的良心と同情とを持って救っていただきたい」と訴えます。
 本論の前半は石器時代に関するもので、まず人類史全体の中での石器時代の位置が示されます。西岡は、石器時代の前に「木器時代」を想定し、石器時代を「曙石器時代」・「旧石器時代」・「新石器時代」に分けます。今日では使われない用語ですが、これは西村眞次の『人類学汎論』が依拠していたアイルランド人の人類学者、マカリスターによる時代区分で、同書の西岡への影響力の強さがうかがえます。
 次に、日本列島での旧石器時代から新石器時代への移り変わりが述べられます。西岡は、旧石器時代の日本列島には人類がおらず、大陸が新石器時代になった7千~1万年前、北方から日本列島に進入した「旧石器」を用いる「石器人」が、磨製石器を作る技術を習得して新石器文化へと移行し、日本列島の先住民となったと説きます。
 これは当時の人類学・考古学の熱い話題の一つでした。この前年4月、直良信夫(なおらのぶお)が兵庫県明石市の海岸の絶壁に露出した更新世の地層から、原人の人骨(いわゆる「明石原人」)や石器、動植物の化石などを発掘し、日本列島にも旧石器時代が存在したと主張しました。これに対し鳥居龍蔵や大山柏は、直良の発掘した石器が本当に旧石器時代のものか疑わしい、地球全体の人類史・環境史に照らして旧石器時代の日本列島に人類が進入できた確証はないなどと否定的な見解を示し、「日本旧石器時代存否論争」が勃発していたのです。西岡の話はこうした動向を踏まえたものといえますが、大陸より一段階遅れて日本列島に旧石器文化が伝わり、列島内部で自律的に新石器文化に変化したという考え方は他に類がなく、西岡独自の折衷案かと思われます。
 先住民が北方から日本列島に進入したという考え方は、明治時代に羽柴雄輔(はしばゆうすけ)が唱え(1889「縄紋土器を比較して本邦の古代に大移転の動乱ありしを知る」『東京人類学会雑誌』37号)、これに注目した作家、江見水蔭(えみすいいん)が、人気となった考古小説『三千年前』(1917 実業之日本社)の中で、先住民コロボックルたちの昔話として物語に組み込みました。西村眞次も『国民の日本史第一篇 大和時代』(1923 早稲田大学出版部)の中で、アイヌ民族の先祖が、太陽の昇る東の方角に憧れてユーラシア大陸を東進し、沿海州に達したのち間宮海峡を渡ってサハリン経由で日本列島を南下したと説いており、西岡は、これらの影響を強く受けたものとみられます。
 7千年前~1万年前という年代は、大山が『欧州旧石器時代』(1929 雄山閣)で紹介した、氷河期の終末年代に関するヨーロッパの研究者たちの知見に拠ったものです。
 前半の最後には、田園調布に分布する貝塚などの「石器時代」の遺跡が網羅的に紹介されます。西岡は、田園調布西部の台地上に広がり、地元在住の慶應義塾大学学生、高橋正人(たかはしまさんど)により調査された上沼部貝塚(かみぬまべかいづか)が消失の危機にあることを大きく取り上げ、遺跡の存在を周知し保存につなげるべく、「『上沼部貝塚遺跡』と書いた立札の一本ぐらい建ててやる同情心」を持ってほしいと懇願します。
 本論後半は古墳時代に関するもので、まず「石器時代」から「鉄器時代」への移り変わりが概観されます。西岡は、「鉄器文化の人種」が朝鮮半島方面から日本列島に渡来して、次第に東北方面へと進出し、先住民である「石器人」は、石斧や石のやじりの弓矢による「応戦」もむなしく、「圧倒」されて北方へ追いつめられ、古代の蝦夷(えみし)や現在のアイヌ民族になったと述べます。これは前回のコラムでご紹介した、「石器時代」の日本列島の先住民をアイヌと考える明治時代以来の学説にそったものです。先住民アイヌ説は当時、日本列島の人類の起源に迫る鳥居龍蔵のベストセラー『有史以前の日本』(1918 磯部甲陽堂)や、前掲西村眞次の『大和時代』などで議論の前提とされており、主流の学説として一般にも普及していました。この時点での西岡も、先住民アイヌ説を全面的に支持していたことが分かります。

 その後話題は再び地元、田園調布に移り、下沼部汐見台横穴墓群の発掘のエピソードなどが語られたほか、これまで調査に努めてきた田園調布から野毛にかけて広がる古墳群の分布状況、各古墳に振られた番号が発表されます。
 最後に西岡は、自身が発掘、採集してきた考古遺物について「小生研究室に御立寄り下されば、小生在宅の限りいつでもお見せ致します」と宣言します。西岡の「工作室」が資料の保管・公開施設としての形を整えつつあったことを示す、最も早い時期の資料です。
 講演会から約2か月後の昭和7(1932)年9月、東調布町による郷土教育調査研究の成果は『郷土資料』として刊行されます。遺跡や地質、環境史に関する項目には、西岡や脇水の講演内容が全面的に盛り込まれました。同書は、宅地開発以前の田園調布地区の様子を伝える資料としてはもちろん、遺跡の詳しい位置や年代などを推定する手掛かりとしても、今日なお大きな価値を持っています。

(注釈1)当時の研究機関の動向は、大阪府「なにわ塾」編(坪井清足講話)1999『考古ボーイの70年』ブレーンセンター、勅使河原彰1988『日本考古学史』東京大学出版会、寺田和夫1975『日本の人類学』思索社、長坂金雄1970『雄山閣と共に』雄山閣 などをもとに執筆しました。

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