第2回 初代館長、西岡秀雄 学芸員コラム

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更新日:2022年6月5日

科学少年から考古少年へ(前編)

 このコラムは、企画展「田園調布の遺跡発見!~初代館長、西岡秀雄の足跡~」の内容を、さらに掘り下げたものです。大田区立郷土博物館の初代館長を務めた考古学者・地理学者、西岡秀雄(1913~2011)が、10代後半~20代、考古学・人類学を志し、地元、田園調布周辺の遺跡の調査研究と成果の発信に奔走しつつ、研究者へと成長していく足跡をたどります。

田園調布の電化生活

学術を重んじる家族
 西岡秀雄は大正2(1913)年10月6日、宮城県仙台市で、父俊雄と母郁子の長男として生まれました。父俊雄は東北帝国大学で工学を修め、当時、同大学の講師を務めていました。その後まもなく俊雄がエンジニアとして芝浦製作所(東芝の前身の一つ)に就職したため、一家は、郁子の実家がある東京青山に転居します。大正8(1919)年頃、俊雄は芝浦製作所と提携するGE社に出向するため渡米します。渡米中俊雄は博士号を取得しているので、勤務のかたわら現地の大学で学んでいたことが分かります。
 母郁子は秀雄が4歳の大正6(1917)年、日本女子大学英文学科に入学し、大正9(1920)年に卒業後間もなく、アメリカの夫のもとに渡ります。 両親が渡米している間、幼い秀雄は母方の祖母、大原康子のもとで育てられます。
 出発前の郁子の様子は『読売新聞』(大正9年6月22日号)に報じられ、友人たちと自作したシカゴ最新モードの洋装を着用した姿が写っています。郁子はインタビューに対して、状況が許せば米国の大学への留学も考えていると答えています。帝国大学が女性に原則門戸を閉ざしていた当時、留学は、日本の女性が学術で立身するために、わずかにひらけた経路でした(島田法子2004「若き日の上代タノにみる明治期の女子教育」『日本女子大学文学部紀要』第53号)。最新の洋装も、アメリカで、現地の女性に引けを取るまいとの気迫を示したものかもしれません。なお郁子の義妹、大原恭子は、大正13(1924)年、東北帝国大学の初期の女子学生となり、卒業後は日本女子大学英文学科の教授となっています。
 このように西岡の家族は、父方、母方ともに学術で立身することに高い価値を置いていました。特に、母郁子や叔母大原恭子の経歴は、女性と学術をめぐる当時の世間一般の因習に抗する、強い信念をうかがわせるものです。
 なお、西岡秀雄の父俊雄は岩手県盛岡出身、母方の叔母大原恭子は岩手県日詰村(現、紫波町)出身、岳父の斎藤省三は宮城県石巻出身です。西岡秀雄の研究活動の集大成、気候七百年周期説の原点も、福島県中通りをフィールドとした研究にありました。このように西岡秀雄は、東北地方太平洋側ともゆかりの深い人物といえます。

電化住宅のパワフルな生活
 大正12(1923)年、関東大震災が発生。知らせを受けて両親は急遽帰国し、同年一家は青山を離れ、震災の危険が少ない田園調布に居を移します。
 開発が始まって間もない田園調布では、開発者の方針で、家事全般を電化する「電化住宅」を実験的に導入していました。西岡邸もその一つで、電灯はもちろん、電気掃除機、電気冷蔵庫まで備え、時に家電業界の宣伝塔の機能も果たしました。昭和6(1931)年1月19日の『報知新聞』では、東京電気が世界初の電子楽器テルミンを輸入した際の試験演奏会が、西岡邸で行われた際の模様が報じられています。
 昭和初期の日本は、家電製品に象徴される工業製品やジャズ、映画、ファッションなど、生活の多方面にわたってアメリカから大衆消費文化を輸入し、「アメリカ化」ともいえる様相を呈していました(井上寿一2011『戦前昭和の社会』講談社)。両親が長期のアメリカ生活を経験し、最先端の家電製品に囲まれた西岡の家庭は、そんな時代の急先鋒にあったのです。
 俊雄は帰国後、東京電気(東芝の前身の一つ)の営業部長として活躍します。この頃の西岡一家の生活を伝える資料からは、その活力に満ちた様子がうかがえます。
 エンジニアの俊雄は、自邸の離れに万力や旋盤などの専門的な工具を備えた「工作室」を建てました。ここが秀雄少年の遊び場となり、これらの道具を使った工作や実験に親しむことで、秀雄は科学を好む科学少年へと成長していきました。
 俊雄はマンガやエッセイも得意とし、本業のかたわら、家電業界の情報誌『家庭の電気』(家庭電気普及会)に、最新家電の紹介や電化生活の様々な場面をユーモラスに切り取った小文を頻繁に執筆します。特にマンガについては、「電気漫画」という1~4コマ漫画の連載を持つほどの腕前でした。
 俊雄は登山やスキーも趣味とし、週末はいつも近郊の山に出かけました。その楽しみ方は、物見遊山、健康促進、社交やファッションなどの目的からは一線を画した質実剛健なもので、「山を見つめるは自己をみつめることである。山が自分に話をしかけてくれるから登るのである」(西岡俊雄1926「健康礼賛」『家庭の電気』第3巻第9号)との一家言をもち、時には危険な雪山に挑むこともありました。
 主婦となった母郁子は、近所の主婦たちと家電を使った料理サークルを開いていたようで、俊雄のエッセイには、妻たちが料理サークルで起こした失敗を面白おかしく描いたとみられるものがあります(西岡俊雄1927「家庭料理の失敗談」『家庭の電気』第4巻第8号)。電気オーブンで焼き菓子を作る際に、生地のセット方法を誤り、半分はナマ、半分は炭化したというもので、当時の家電の仕組みを知る上でも興味深いエピソードです。
 当初は失敗もあったようですが郁子も家電の操作に習熟し、「電化生活」を紹介するモニターとして情報誌に寄稿することもありました。郁子は後に婦人同志会に加入し、会計係として歳末廉売会を指揮していることからも、社交的でオーガナイザーとしての手腕をもった人物だったことがうかがえます。
 俊雄は「山は単行に限る」と述べ、一人での登山を好んでいましたが、郁子は夫の影響で冬山登山に親しんでおり、秀雄も後に少年期の趣味は登山だったと語っていることから(『財団法人 小山台 会報』第4号)、家族で山に行くことも多かったようです。さらに秀雄を育てた祖母、大原康子も、70歳の時、色紙を手に和歌を詠みながら、23歳の青年に成長した秀雄とともに雪の妙高高原を踏破し、話題となりました(『報知新聞』昭和11年1月7日)。

 俊雄の「電気漫画」には、一家の暮らしを題材にしたとみられる作品が散見されます。中でもセーラー服を着た少年は「電気屋のせがれ」と呼ばれ、息子秀雄がモデルになっていると思われます。「電気屋のせがれ」は、家族で自家用車に乗って山奥にキャンプに行き、父親とともに機材の設営に勤しんだり、科学工作で簡単な発電機を作って大人を驚かせるかと思えば、パチンコで街灯にとまる鳥を狙うわんぱくさを見せて、「尚武の精神にとむ電気屋のせがれ」と評されたりします。
 このように西岡の家庭は、学術での立身を重視するといっても机上の学習だけに力を注ぐのではなく、アウトドアなど多方面の趣味や社交に、エネルギッシュに活動していました。こうした環境が、後の西岡秀雄の多彩な活動の原点にあったといえます。
 一方で、当時できたばかりの田園調布の町はまだ住民も少なかったため、転居後も青山の小学校に通っていた西岡少年は、学校以外に友達がおらず、地元では一人で遊ぶことが多かったといいます。後に「穴掘りばかりやっていた」と回顧していることから、既に考古学への興味が芽生えていたのかもしれません。

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