大田区工業の歴史

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更新日:2025年9月9日

江戸時代から明治時代 海苔を養殖したり、土産品として麦わら細工を生産する。
大正時代 東京湾沿いに工場ができてくる。関東大震災の後には都市部にあった多くの工場が転入してくる。
昭和初期から20年代 戦争に使う戦車、機関銃などの軍需品をつくる。戦争が終わったあとは鍋、弁当箱、洗面器などの日用品やリヤカー、農具などをつくる。
昭和30年 工場数は東京都23区で4位、従業員数は1位になる。
昭和37年 東京オリンピックのための港湾整備により漁業組合が漁業権を放棄し、海苔の養殖ができなくなる。広い海苔干し場に多くの工場が集まってくる。
昭和40年頃 工場の公害問題が発生し始め、大きな社会問題となる。
昭和48年頃 2度にわたるオイルショックにより、仕事の量の減少と親企業からのコストダウンに苦しむ。そこで、一社依存型(系列)から特定の加工分野に専業化し、複数の企業から仕事を受注することによって危険を分散する体制を整える。
昭和50年頃 めっきや鋳鍛造などの工場が住居から離れた東京湾の埋め立て地(京浜島・城南島など)に集団移転する。大企業が地方や海外に移転する動きが加速する。
昭和51年 工場数が東京23区で第1位になる。
昭和58年 工場数が過去最高の9,190件となる。
昭和60年代 NC工作機械(数値情報を入力すると自動で金属などの材料を加工してくれる工作機械)を導入するなど、多種少量、短納期、高精度の生産に対応した体制を整備する。
平成元年から 企業数は減少するが、技術力の高いモノづくりの集積は残っている。

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