おおたオリンピック・パラリンピックメモリー(東京1964大会)

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更新日:2021年12月1日

50年前に大田区で走ったランナー

 1964年東京オリンピックの聖火ランナーは大田区内を走りました。ギリシャのオリンピアで採火された聖火は、アジア各国を回り沖縄に到着。鹿児島、宮崎、北海道が、聖火リレーの3起点となりました。国内における聖火リレーは、4つのコースで全都道府県を回りました。
 大田区では、昭和39年(1964年)1月頃に、当時の橋爪儀八郎区長を中心に聖火リレー隊を組織するための協議を開始。7月以降、数回の合同練習を重ね、実際のコースを試走するなどして、万全の態勢を整えました。宮崎から四国、中国、近畿、東海の各府県を経て繋がれた聖火は、10月8日、神奈川県から引き継がれ、六郷橋において大田区の第1区走者にバトンタッチされて、大森海岸駅前までの3区間をリレーでつなぎました。
 当時、大田区職員として携わった多田三千穂さんは、「スタート地点への移動の車中で、ランナーの方々も、自分も大変緊張していて会話もほとんどしなかったことを記憶している。聖火ランナーが走りだした時は、大役を果たせたという思いがした。」と振り返りました。
 1964年に日本を縦断した聖火リレーの興奮が、56年の時を超えて再び、東京に戻ってきます。


 昭和39年の大田区報10月号の表紙は、聖火リレー合同練習会の様子です。本番に備え、第1国道を聖火リレー隊が2列縦隊で走る様子が写されています。国内における聖火リレーは全都道府県を4つのコースで回りました。大田区に届いた聖火は、宮崎、大分、愛媛、高知、徳島、香川、岡山、兵庫、大阪、和歌山、奈良、京都、滋賀、三重、岐阜、愛知、静岡、神奈川をリレーされてきたもので、大田区を経由して、10月8日に東京都庁(有楽町)にゴールしました。


 大田区で聖火リレーが行われたのは、昭和39年10月8日。その日の天候は曇りがちで、少し霧雨が降っていました。川崎から大田区に聖火が引き継がれたのは午前9時。大田区・橋爪区長(当時)が持つ聖火トーチに、なかなか火がつかないというハプニングが。着火部に取り付けられていたキャップが、外されていませんでした。区長の足元から、「区長、キャップを外してください。」と声をかけて、無事聖火が大田区に引き継がれました(当時の区職員・多田 三千穂氏談)。

1964年 東京オリンピック聖火トーチにかける想い

 1964年大会の聖火トーチは、日本工機株式会社(当時は昭和化成品株式会社)によって開発・製造されました。同社の営業本部・佐藤隆氏に当時のエピソードをインタビューしました。

 「絶対に消えないトーチを作ってほしい。」
 東京オリンピック大会組織委員会から求められた注文です。白羽の矢が立った昭和化成品株式会社は、防衛省に銃弾を納入するなど、火薬を用いた製品を開発・製造していました。聖火リレーは、雨が降る日も風が吹く日もある。そんな悪天候の中でも聖火が消えないような創意工夫が、聖火トーチの絶対条件とされたのです。開発のプロセスでは何度も失敗を繰り返し、試作品は300本にのぼりました。そんな中、開発担当者は、救難信号筒にヒントを得て、トーチ先端部の発炎成分を着想しました。さらに1,000本ものテストを行い、水の入ったバケツに入れても、土の中に埋めても消えない聖火トーチが、ようやく完成しました。また、聖火リレーの見栄えの重要性から、「煙が出ないとトーチではない。」と考え、開会式が行われる夕刻でも炎と白煙がくっきり見える製品に仕上げました。
 日本人の持つこだわりや開発力が東京オリンピックの聖火リレーを大成功に導きました。その後、同社の聖火トーチは、1972年札幌冬季オリンピック、1984年サラエボ冬季オリンピックにおいても正式採用され、オリンピックの演出に一役買っているそうです。
 当時の聖火トーチ設計、開発者である故・門馬佐太郎氏は、当時の新聞インタビューにおいて、こうしめくくっています。
「(聖火トーチの開発を機に)オリンピックを通じて、火薬がもっと平和な用途に伸びていくといいんですがねえ。」
 2020年 東京オリンピック・パラリンピックの開催が、近代オリンピックの父・クーベルタン男爵が提唱した「平和でよりよい世界の実現に貢献」につながることを心より期待しています。

1964年 東京オリンピック競技大会を演出した音楽

 1964年大会の開会式における入場行進で流れた「オリンピック・マーチ」。皆さまも当時を振り返る映像と共に、耳にしたことがあるのではないでしょうか。1964年大会のオリンピック・マーチは、古関裕而(ゆうじ)氏(故人)によって作曲されました。現在、大田区の南馬込に在住されている古関正裕氏(裕而氏のご長男)に、作曲に至るエピソードを伺いました。

 古関氏にオリンピック・マーチ作曲の依頼があったのは、大会の2年前である1962年の秋頃。裕而氏は、アジア初のオリンピック競技大会におけるマーチを作ることに対して、非常に喜んでいたそうです。
「すごく良いマーチだったわよ。あなたオリンピック・マーチ大丈夫なの?」
当時、「史上最大の作戦」という映画が上映されヒットしていました。そのテーマソングが優れたマーチで、映画を見た奥様が思わずプレッシャーのかかる言葉をかけました。それに対して、裕而氏は「大丈夫だよ。」と答えたとのことです。
 マーチの作曲者は1963年春頃に発表されていましたが、公の演奏は1964年の開会式まで一度も行なわれることはありませんでした。家族である正裕氏すらも開会式まで一度も耳にしたことがなかったそうです。
「父は作曲する時に楽器を使わないんです。だから、家族ですらどんな曲を作曲しているのかわかりませんでした。」
 1964年10月10日(土曜日)午後2時、73,000人の大観衆を集めた国立競技場に軽やかな「オリンピック・マーチ」のメロディーが鳴り響きます。ギリシャを先頭に、最後の日本選手団まで94か国の選手団が、このマーチにのって入場行進を行いました。スタンドを割れんばかりの拍手と歓声がつつみこみました。正裕氏は当時高校3年生で、興味があるのは当時流行していたアメリカン・ポップス。「父の曲は、若者の音楽と違う」と、お父様の作品に関心が薄かった正裕氏も、この「オリンピック・マーチ」はレコードを買って何度も聴いたとのことです。
 音楽は大会の演出に大きな効果があり、人々の心に刻み込まれます。50年前の出来事であっても、音楽を聴くことでしっかりと思い出させてくれます。オリンピック・マーチのみならず、「闘魂こめて」、「六甲おろし」、「栄冠は君に輝く」などの名曲を作曲した古関裕而氏。インタビューの最後に、音楽とスポーツ競技大会の関係を尋ねると、
「若い方々への応援歌だと思う。父は戦争中も多くの歌を作ったが、その当時の歌は、短調であった。戦後作曲したスポーツ関係の歌は、長調の明るい曲調で作曲されている。」。音楽がアスリートや観客の心を引き立て、選手のパフォーマンスを引き出し、ファンをかきたてる効果があることがわかるエピソードです。

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